国連機関の本部での仕事

SDGs発足から遡ること5年前、2010年4月に国連の最大の組織である国連開発計画(UNDP: United Nations Development Programme)の本部にて、国際政治や外交を所管するパートナーシップ局(Partnership Bureau)、続いて対外関係・アドボカシー局(External Relation and Advocacy Bureau)で働くことになりました

当時、JICAのアフガニスタン事務所で企画班長・主任調査役としてカブールに単身赴任していたため、家族を日本からニューヨークに呼び寄せ、自身はアフガニスタンから直行しました。結果的に国連勤務後すぐにJICAを辞めることになるのですが、この時はJICAに籍を残したまま、出向という形で向かいました。

青色の有名なニューヨークの国連本部ビルはちょうどアスベスト対策で大規模な総工事を行っており、全ての国連職員が周辺のビルに分散してオフィスを構えていました。UNDPは国連本部ビルの向かいにあるDC1という高層ビル内に本部を置いており、19階の眺めの良いフロアの一角の個室が与えられました。

「Policy Advisor(対JICAではJICA-UNDP Collaboration Advisor/EOM)」という肩書で、ポストはP4という国連の課長・主任クラスの待遇でした。Division for Resource Mobilization(DRM)という部に米国の担当官、中国の担当官といった形で主要ドナー国との対外交渉を所管する外交官がおり、その中で日本担当官を務めました。

国連と日本のはざま

日本だけはJapan UnitというDRMと対等なステータスを持つ組織があって局内で特別扱いされており、本来は局の仕事ではないようなプログラムの形成・実施や民間企業との連携など、日本に関連することであれば何でも仕事が振られてきました。その分、局長や局次長と直接のコミュニケーションをとることも容易な立場でした。

日本政府が確保した戦略ポストであったため、国連と日本政府(外務省・JICA)の双方がwin-winになるように働くことが求められました。双方のハイレベル同士をつなげるような役回りにあり、国連事務総長や総理大臣・外務大臣などのレベルでどんな外交交渉が行われるのか、実体験を持って学ぶことができました。UNDP総裁の来日ミッションに同行し、総理大臣や外務大臣等との面談に一緒に入ることも何度かありました。

業務の内容は日本・UNDPパートナーシップ基金という特別予算の管理から国際会議の出席まで多岐に渡りました。実態として多くの時間を使っていたのは、上司であるUNDPを始めとした国連の幹部と、日本政府の高官やJICAの幹部とのパートナーシップの構築・強化でした。具体的には、UNDP内や国連代表部と調整の上でその場で何を議論して合意するかを決め、実際に会議に出席をして議事録を取り、その議事録を国連内の各部局や担当者と調整して合意事項実施や予算確保に奔走していました。

野田総理大臣(当時)訪米時、ニューヨークでの国連職員との懇親会

産まれる直前のSDGsの姿はどんなだったか?

国連憲章の第一条に書いてある通り、国連の目的は平和と人権と開発の3つを国際協調により実現していくことにあります。それらは強く結びついており本来は切り離せないのですが、数多ある国連機関としては分業せざるを得ず、UNDPは主に3つ目の開発分野をリードする機関の位置づけになります。

その中でも私のいたパートナーシップ局は、グローバルイシューの変化の潮流と各国政府や国際機関の動きを読み、その中でのUNDPの強みを考えた注力分野を定め、最適なポジショニング確保すべく、世界中の官民の多様なステークホルダーと具体的なパートナーシップ構築を行っていくという役回りでした。

当時、UNDPの所管する開発の分野で、グローバルイシューの変化の潮流、民間企業でいえば市場変化は、激動の時代を迎えていました。その中心にあったものが「SDGs」でした。

ただし、当時、国連にも国際社会にもSDGsという名前は存在しません。その前身であるミレニアル開発目標(MDGs: Millennium Development Goals)をどう達成するか、それ以上にグローバルな課題として国際的な力を持ちつつあった開発資金と環境の潮流がどうなっていくか、といったことが盛んに議論されていました。

背景により大きなイシューとして、第二次世界大戦以降、戦後復興が終わり、冷戦も終わり、世界が一つになって環境や開発などのグローバルイシューを解決しようとしているのに、1990年代の構造調整プログラムの失敗以降、国際社会において様々な新しいコンセプトやイニシアチブが産み出される一方で、本質的な解決に向かう規模と内容の成果が出せていない現実がありました。

改善よりも悪化に向かっているのではないかという焦りの中で、「国連を中心とした従来のやり方は本当に有効なのか?」といった国連の存在意義を揺るがす辛辣な批判も度々聞かれました。

そのような状況下、国連は何としても当時の世界の目標だったMDGsを残り5年で達成しなければなりませんでした。それすら危ぶまれる中で「次の目標」を考える余裕などありませんでした。

しかし、MDGsの達成はあくまで「及第点」であり、その先の明るい未来と国際社会の実効的な結束を実現していくための手立てが必要なことは明らかでした。

2011年になって最初にその雰囲気を破り「次の目標」、即ちMDGsが終了する2016年以降の世界のゴールの口火を切ったのは、国際社会の雄である欧米でも、新興国のトップランナーである中国・インドでも、途上国代表のアフリカ諸国でもありませんでした。

それは、国際社会から見ればダークホースとも言える”日本”だったのです。

「SDGs」という言葉が産まれる約1年前のことです。このときは、「ポストMDGs(MDGsの後に続くゴールという意味)」という名称で呼ばれました。

「次の15年間の世界と人類のゴールを日本が主導して創る!」

普段は慎重で大人しい日本の外務省からこの意気込みを感じたときは、ついに日本が世界をリードするのかと思い、一人の日本人としてワクワクしました。

同時に、 外務省からUNDPへの出向者が不在だったことも相まって、 この「ポストMDGs」という全世界的なイシューが、突如、私の仕事(UNDPと日本のパートナーシップ)のど真ん中に投げ込まれてきました。

しかしながら、この日本のイニシアチブは、国際社会から驚きとともに大きな反感をもって迎えられることになりました。