ポストMDGsアジェンダに対する国際社会の反発

2011年当時の国連界隈では、「2016年以降の話」、すなわちMDGsの次の話をするのは禁句(タブー)という雰囲気が漂っていました。なぜなら、もし国際社会がその話を持ち出せば、メディアやNGO等から、「まだ5年もあるのに国際社会はMDGsの達成を諦めたのか!」と批判されてしまうからです。

実際、日本政府の意向を受けて経済社会国連経済社会局(UN-DESA)やUNDPの関係各局にヒアリングに回った際、どこへ行っても「我々はまだMDGs諦めていない。次の話をするのは時期尚早だ!」という建前臭さを感じる決まり文句で叱られました。本音では、「俺たちだって分かっているし、リードしたいけど、みんな我慢してるんだよ。空気読め!」という苛立ちをぶつけられていたように思います。「この雰囲気の中で日本が言い出すのは無理だな」と感じました。

ところが、日本の外務本省はそうした人々に全く配慮することなく、押して押しての一点張り。しかも、2016年以降の世界の目標の中心には、貧困でも環境でもなく、日本の外交アジェンダである「人間の安全保障(Human Security)」を入れるべきであると一辺倒の主張を繰り返しました。

あまりの空気の読めなさに怒りを通り越して呆れている国連高官もいましたが、拠出金を交渉材料に使いながらUNDPを巻き込み、「MDGsフォローアップ会合」なるものの日本での開催を強引に決めてしまいました。この時は、日本外交の稚拙な部分と、意外な押しの強さとの両方を感じました。

そして、私自身、「国連にいる日本人(それも日本外交担当)」という極めて微妙な立ち位置のため針の筵になりながら主催者グループの一員として奔走したMDGsフォローアップ会合という名の事実上の”SDGsキックオフ会合”が2011年6月に東京で開催されました。その後も2013年までコンタクト・グループという名の会合が続けられました。(なお、このときはさすがにここで書けない際どい苦労話がたくさんあります。)

天下統一を目指す群雄割拠の時代へ

日本の動きを受けて、国際社会のポストMDGsの動きは一気に加速しました。

国連事務局やUNDPにMDGsフォローアップ会合の協力依頼に行った際には、「ポスト2015年開発アジェンダに関するハイレベルパネル/国連システム・タスクフォース」というものを国連事務総長主導で立ち上げようとしているので、ポストMDGsの議論はそこで集約されるべきだ(つまり、日本主導には協力しない)」と言われました。

しかし、よく調べてみると、そのハイレベルパネルはUN-DESAの準備事務局すらたいした活動が開始できていない、それどころか、メンバー選定すら全員分できていない状況でした。

ところが、日本が動いて以降、彼らの動きは急ピッチで進み、2011年末頃から今度は国連事務局とUNDPを中心に、複数のタスクチームがタケノコのように立ち上がってきました。2012年1月には「ポスト2015年開発アジェンダに関する国連システム・タスクチーム」もようやく発足しました。

そのうちに欧州勢や中国を中心に日本と似た動きをする国も現れ始め、群雄割拠の戦国時代に突入しました。各国及び国際機関の関心は、「次の15年間の世界の目標の中心に何を置くか」、そして、「どの国や国際機関が主導権をとるか」でした。

国連には193か国の加盟国があり、基本的には意思決定は国連総会の過半数で決定されます。そのため、一国一票が原則ではありますが、EU、G77+China、ASEANなどの恒常的なグループは、国会でいうところの政党のような多数派ならではの発言権と合意形成力を持っています。国際社会としての意思決定は、その時々の国際会議の立て付けやテーマに応じて、意見を同じくするグループが形成されて交渉にあたることになります。大きなテーマであればあるほど、グループの形成が重要になってきます。

このときは、

・欧州勢など地球温暖化対策を推進したいグループ

・途上国勢など内政干渉を減らしつつODAの総額を増やしたいグループ

・国連などMDGsを引き継ぎ国連中心の国際協調を続けたいグループ

・米国や日本のようにとにかく自国の外交アジェンダを推進したいグループ

にざっくり言えば分かれていたように思います。(結論が出た今になってみると、各国の外交官に「自分たちはそんなこと考えてなかった!」と怒られそうなので、一応、私個人の印象ということで。)

これが本当だと、SDGsの美しい目標が示す「地球や人類の視点はどこへ行った?」と言われそうですが、国際政治や外交の中での国際合意の成立過程の実態はそのようなものなのかもしれません。

ただし、各国政府も国連も私利私欲のみで動いているわけではありません。もちろん地球のため、人類のため、社会のため、という気持ちは、交渉に臨む全ての外交官・国連職員や活動を展開するあらゆるアクターの心の中にあったことも、認めなければなりません。

国連開発計画(UNDP)の対外関係・アドボカシー局の当時メンバー

関ヶ原の合戦となった”リオ+20″

小競り合いが続いた後、天下分け目の大戦となったのは2012年6月にブラジルのリオデジャネイロで開催された国連持続可能な開発会議、通称「リオ+20」でした。

Rio+20は1992年に始まり、その後10年に一回の頻度で慣例的に行われている地球環境を考える首脳級会合(地球サミット)です。たまたまこの年のこのタイミングに回ってきただけで、本来はポストMDGsを決めるという役回りにはありませんでした。しかし、主導権争いが行われる中で、最も大事な時期にちょうど良いアジェンダと参加者を見込む大型の国際会合であったため、ここが歴史を決める場になりました。

そこで初めて「Sustainable Development Goals」、すなわち「SDGs」という言葉が正式に誕生しました。

Rio+20の結論、そしてその象徴でもある「SDGs」という名称は、それぞれのグループがお互いに折り合える最適な妥協点に落ち着いた象徴といって良いと思います。

まず、SDGsの”S”である「サステナビリティ」の名が示す通り、ポストMDGsのアジェンダが「開発のあり方」ではなく、「地球と人類の持続性」に集約されたことは、環境問題を中心に置きたかった欧州勢の勝利と言えます。

彼らは「今の地球と人類の在り方は持続可能でない」というセンセーショナルな問題提起を、次の15年間の世界ビジョンの中心に置くことに成功しました。これにより、地球環境対策は人類がとるべき数ある選択肢の一つではなく、絶対不可欠な唯一の道であることを事実上国際社会に認めさせました。

一方で、SDGsの”DGs”が示す「MDGsからの継続性」は国連の意見が取り込まれた結果と言えます。合意文書ではポスト2015年開発アジェンダに整合的なものとして統合されることと、30か国によるオープン・ワーキング・グループ(OWG)を設置し議論することが決められました。

また、内政干渉の無いODA資金の増額を求める途上国グループに対して、上記のオープン・ワーキング・グループとともに、持続可能な開発のためのファイナンシングに関する政府間委員会を立ち上げ、SDGsのメカニズムの中に組み込んでいくこととなりました。

こうして大勢が決し、その翌月に、ようやく潘基文国連事務総長がポスト2015年開発アジェンダに関する諮問グループであるハイレベルパネルの27名のメンバーを発表しました。

その後は、国際社会での継続的な議論とUNDP等を中心とした世界各国へのコンサルテーションを通して課題が集約され、OWGが2014年7月に国連総会に提出した報告書の中で今の17ゴール169ターゲットという形が決定づけられました。

私はリオ+20が決着した少し後くらいまで本件を関係者の一人としてフォローしていましたが、2012年末に国連もJICAも離れることになりました。そのため、その後の経緯は報道、公開情報及び人づての話を通してしか分かりません。しかし、当時予想されていた道筋から大きく外れることなく、最終的にSDGsは決着しています。

その後、2016年、SDGsが開始された年に、再び国連職員、それもUNDPの日本におけるSDGs普及担当の広報官として国連に戻ってくることになりました。